欲しかったのは珈琲でなく、グラウンディングだったの巻。

こんにちは、吉野実岐子です。

昨日は、筍を頂いてしまい、クッキーやかりんとう饅頭もいただいてしまい、猫のよめちゃんにも、尻尾をぶんぶんふっているゴールデンレトリバーにも出会えて、たっくさんのミントも頂いてしまって、いつものようにしあわせでした~。うふふ。

さて、少し前にクライアントさんから「どうしても珈琲をやめられない」と、ご相談を受けました。みなさんの参考になると思います。掲載許可をいただいているので、シェアしますね。

その方は、もともと珈琲は苦手でした。しかし、珈琲の輸入業についているため、どうしてもお取引先の前では、飲む必要があり、自分の感覚をつぶすようにして、いつしか飲めるようになり、なんとなく毎日何杯も飲むのが当たり前の習慣になってしまったそうです。

その時の感覚をつぶす感覚が、とても強烈で、珈琲が飲めなかった元の感覚になりたいからと、珈琲をやめたがっていました。

それで、おいしくてリーズナブルな珈琲を何杯も飲むことから、まずは香りや味に導かれ、勝手にスローダウンしてしまうような質の良い珈琲を、ゆっくり時間をかけて味わうようにしていただきました。この質の良い珈琲は、わたしが紹介した、現在では売ってないものです。

そしたら、ごまかすようなガマンするような罪のような記憶は薄れていき、実際に珈琲を毎日5杯近く飲まれていたところから、月に数回1杯ずつにまで、減りました。なんとなくカフェやスタバにはいることも減り、蕎麦茶など他のものがたくさん目に入ってくるようになられました。これで誰が見ても中毒の状態からは、脱したといえるでしょう。

身体がひらいている方でしたので、珈琲を飲むと感じるサランラップで皮膚を塞がれるような感覚にも気づかれていて、そこからさらに珈琲を買わないようにしたいと、がんばられました。

しかし、そこから、少しまた珈琲を飲む量が増えたのです。それは、自然な流れに任せず、珈琲をやめることに執着したからでした。いいかえれば「わたしの住む世界に珈琲のはいるスペースはない(=わたしは珈琲をやめる)」と決めたわけではなく、「珈琲をやめたいが、やめるのは難しいが、とにかくやめたいのだ」という状態だったのです。

「珈琲をやめたいが、やめるのは難しいが、とにかくやめたいのだ」は、「わたしの人生にはなぜか珈琲のためのスペースがいつもある」と、いいかえられます。そしたら、やめられないのは、当然ですね。

また、珈琲を輸入する仕事につくまでの就活の大変さや、初めの数年歯をくいしばってがんばったこと、つまり怒りが残っていたので、珈琲は嫌いな戦友のような位置づけにもなっていました。

ここを癒したら、街で珈琲をみかけたり 香りがきても「珍しい」と感じるようになったと言います。「わたしには関係のないおもしろい物があるけど、知らなくていい」と、思ったそうです。

ただ、それでも友人が訪ねてきた時用に、わたしがご紹介した珈琲はストックしてあり、時々必要だと感じて、薬のように飲むそうです。それを不思議がっていらしたので、以下のお話をしました。

この今は売ってない珈琲は、実はグラウンディングを助けるのです。ショックなことがあったりすると、グラウンディングが難しくなったりします。クライアントさんが、この珈琲を薬のように飲まれていた時期は、実際ショックなことを経験されていた最中でした。

「ショックなことがあり、珈琲をのむ」これだけを頭でっかちに捉えると、ショックのあまり、感覚を麻痺させようと、現実逃避している自分のように、解釈できたりもします。しかし、身体全体でとらえれば違うのです。

こんな風に、頭でっかちでとらえて、自分を誤解している方、大勢いらっしゃるんです。身体全体でとらえてくださいね。

特別なトレーニングをしていない、一般の方をみていると、男女問わず、庭いじりと家事全般はグラウンディングを助けるようです。

ちょっとした普段の動作の中で、太ももの裏の筋肉を使えている感覚のない人は、グラウンディングを意識するといいですね。ピフィラティスのように骨盤底筋を直球できたえるものは、グラウンディングを強力にたすけます。

そして、このクライアントさんがそうであったように、怒りを自覚して、手放していくことです。それは怒りもまた、記憶に過ぎず、決してあなた自身ではないから手をはなしていきましょう、というだけのはなしです。