映画『朝が来る』

おはようございます。吉野実岐子です。 遅ればせながら、河瀬監督の『朝が来る』を観たんです。場面は次々と転換するのに、それが視覚ではっきりと見て取れるのに、水をごくごく飲む時につなぎ目を感じたりしないように、シームレスに感じるんです。要所要所にある「ごめんなさい」の美しさが、観ているこちらのいのちを力づけるんです。 映画の説明を読んだりすると、一般には、いわゆる重い話にみえるでしょうが、透明なおいしい水をごくごく飲むような爽快感がひたすら広がるんです。どんな理由で何歳で子供を産んでも、安産を願われ出産をねぎらわれ、その子の誕生に祝福がある社会を求めます。それとこれとは別だからです。これの中身は、映画を観なくてもわかる方が多いと思うので、書きません。 本当の恥は「なかったことにする」ことの方です。映画の中で、なかったことにしなかった人達に来た朝が、「なかったことにしたい」ことを抱える人の日常を、朝の光で照らしてしまうような作品です。知っている女優さんがいたのに、部分的にドキュメンタリーなのかと思ってしまうような、脈を打っている映画です。生まれたての赤ちゃんの鳴き声のように、なんと勇敢で、なんとあっけらかんとした作品だっただろうと、原作も読みたくなってきました。 「なかったことにしない」から、必然として画面から日常へとなだれ込む希望は、わたしたちみんなのものでしょう。それは、河瀬監督の生きざまと少し共鳴している気もして、全身で生きる尊さに、頭を垂れざるを得ません。

素敵なお誘い

地球史及び人類史にのこる汚点。おはようございます。吉野実岐子です。 昨日の午後、洗い物をしていたら「もういいか~い」の声が、何度もしました。それがどんどん、オクターブが高くなっていくんです。思わず吹き出してしまいました。いい音環境に誘われて、そのまま窓をあけっぱなしにして網戸の掃除をしたから、より子供たちのやり取りが、丸ごと室内へ入ってきます。 おそらく弟と思われる男の子が、上手に隠れていて、姉と思われる女の子は全く見つけられません。男の子の方は「あ、今背中が見える~」「今通り過ぎてたよ」「もっと後ろの方」と、どんどんヒントを出していくのです。そうして、あまりに十分すぎるヒントが揃ったところで、やっと見つけてもらっていました。 見つけてもらった後、困惑気味でちょっと疲れた女の子が「何でこんなところ見つけられたの?」と聞くんです。そうしたら、男の子は女の子に向かって説明するんです。「あのね、赤い虫を見つけたんだよ。それで見てたら、あ、ちょうどここに段差があるから、ここに隠れたら見つからないなと思ったの」何だか二人のやりとりの優しさに、ちょっと涙ぐんでしまいました。 この男の子は、先日道ですれ違ったときに、何か明るいものでも見たような顔をして、はじける笑顔で「こんにちは~!」と、私に挨拶してくれたのですが、それがそこそこ遠くからだったんです。すれ違いざまとは違う、遠くからポーンとボールを投げてくれるような屈託のなさが、とても心に触れたんです。 そんな風に素敵な音環境に誘われたから、網戸掃除も気持ちよく終わって、とてもいい夕方を迎えることができました。ありがとう。君たちの未来がもっと明るいものになるよう、大人として、できることをもっと見つけて、ちゃんとやっていくよ。優しさの中を生きたいです。

持てる豊かさ、持てない豊かさ。

おはようございます。吉野実岐子です。 失読症(学習障害の一種)を持つ方には、「それ持ってますよ」と声を上げて下さっている方がいます。スティーブン・スピルバーグ監督は積極的にそうして下さっている方の一人です。他にも、海外だとトム・クルーズさん(俳優)やトミー・ヒルフィガーさん(デザイナー)は、知られているでしょうか。 日本だと、柳家花緑さん(落語家)も、たくさん伝えて下さっています。黒柳徹子さん(司会者)もその著書で、言及されているそうです。 持っているものは、それが2.0の視力であれ、失読症であれ、お高いバッグであれ、どう生かし切っていくかが重要でしょう。「こんなバッグ持ってすごいでしょ!」「こんなに視力がいいのは自分だけ!」という態度だと、持ち物を生かしているとは呼べませんね。持っている人は持っていることで「ほら、こんな風に、世界を違った風にみられるんだよ」と、持たないあなたにそっと優しい風を吹かせてくれます。

ヘイトクライムの増加

おはようございます。吉野実岐子です。 コロナ以後の世界で明確に増えたものの1つが、アジア系であるわたしたちに対する、ヘイトクライムやハラスメントです。 全米16都市を対象とした、ヘイトクライム等を注視する団体による調査では、2019年の49件に対して、昨年は122件と約2.5倍の増加をみせ、今年に入ってからも増加傾向にあるそうです。 こうした状況における、有効な予防策として「帽子やマスク等で顔を隠し、アジア系だと悟られないようにする」が含まれることには、何ともいたたまれない思いがします。そして、明晩締め切りのこちらのワークショップでは、こうした状況下でも生きやすくなる技をお渡しします。

喪失

おはようございます。吉野実岐子です。 人が亡くなると、お葬式の手配などに、ガンガン背中をけられるようになり、焦らされます。やらなくてはいけない事務作業が、喪失で何も考えられない頭に、たくさん押し寄せるのです。 社会的ニーズに個人的なニーズが踏みつぶされてしまうのです。こういうところへの真心からのサポートが、社会の中にもっと用意されるべきだと思います。起業したい方は、この分野での起業を考えてみて下さい。 だって、実際に亡くなった人とお別れするには、そしてなくなっていなくてもその喪失体験を消化するには、途方もない時間が必要です。それに気づかないほどの刺激を自分に与えている人は、そういうあなたに「弱い」と言うレッテルを貼ってくるかもしれませんが、その表現を敢えて使って表すなら、感覚が麻痺していないあなたの方が強いです。(本質的には「弱い」「強い」といった話ではありません) 子宮促進剤などで生まれることを焦らせる世の中で、さらに亡くなった後のお別れも焦らせるなんて、一体どういう社会でしょうか?あなたのやり方で、お別れして良いに決まっています。とんでもない時間をそこに費やした、そんなあなたは異常ではありません。

験担ぎの肝

確かに!おはようございます。吉野実岐子です。 脳は、決まった動作をすると、その動作を繰り返してきた場面と同じ神経信号の状態を作ります。これが、世に言うルーティーンの大切さです。 素早い反応をしないと、正しい判断をしないと、危険な目に合うスポーツ選手や大工さんなどの鳶職は、何より命を守るために、ルーティーンを大切にしてきました。どちらの足から玄関をまたぐかなど、験担ぎはこのためです。 昨年、ルーティン流行りでしたが、その中身が、その目指せるところと大きくずれていたことを、今ご理解頂けるでしょうか。 そして、あなたが命を守るためにしてきた、本当のルーティーンは何でしたか?例えば、人からの攻撃を避けるべく設定した、あなたのルーティンは何でしたか?

大切な人を守り切れなかった地獄

おはようございます。吉野実岐子です。 借りた恩が大きいと、何度も感謝を伝えたくなります。いわば、返済の必要が生じるからです。一方で、そうではないのに何度も感謝を伝えるケースも、多く見られます。感謝を伝えている方は気づかずとも、感謝を伝えられた相手が内心困惑する状態です。 この場合、感謝を伝えているようで、実際には「もっと」と相手に求めていることがあります。感謝を伝えたくなるような経験を「もっと」与えてほしいと思っていたり、相手と家族のような「もっと」近い距離に近づきたいといった具合です。決められたルールをすり抜け、相手のパーソナル・スペースに侵入する手段として、感謝を伝えるという素敵な形を選んでいるのです。こうした感謝の形の中に、リスペクトはありません。 また、自己肯定感の低さも存在します。自己肯定感が低いと、自分が優しくしたから相手が優しくしてくれているとしても「自分が優しくしたから」が、意識から抜け落ちます。だから「相手が優しくしてくれた。相手がいい人だった。本当にありがたかった。だから恩返ししなくては」といった認識になるのです。「与えなくては」となります。過剰に受け取っているという認識に基づき、受け取ることを拒む流れに入っていきます。 たくさん感謝を伝えてくる裏には、どうしようもない寂しさがあることがほとんどです。「どうしようもない寂しさをどうにかして」という訴えの方が本音に当たるでしょう。東日本大震災から10年経ち、世界ははっきりと悪くなりました。各種募金など、今月を節目とする活動も多いようです。この地球のどこかにいる、あなたの大切な人をまもりきれなかった人生は、地獄でしょう。その地獄はあの時から変わらず、あるのでしょう。ずっと息ができなかったでしょう。 多くの方の回復を願って、あなたが息をできるように、FAPも提供しています。あなたがきれいな自然の中に入って、もう消えてしまおうと思うほどの孤独から、ついに放たれることを、今日も心から願っています。あなたの苦しみがついに終わりますように。そしてあなたの思いがやっと実を結びますように。東北の一日も早い復興を願って止みません。

死にたくなければ、考えろ!

おはようございます。吉野実岐子です。 「流されちゃって」「ぶれたくないんです」と仰る方は、どこか自分が被害者だと思っているようです。「わたしかわいそうなんです」が、ほんのりと確実にだだ洩れしています。他人事にできる鈍感さが、初々しいニュアンスを添えているから、それで取り繕ったつもりです。 そして、この層がまさに「せんそうばんざーい」と言っていたのです。「内心ではそう思っていないからいい」と、行動ではそうしていたのです。あの頃だって、この層が人口のほとんどを占めていたのです。 “Faith is to believe what you do not yet see; the reward for this faith is to see what you believe.” Saint Augustine 自分の頭で思考しないことに実際にはふんぞり返っているこうした魔物たちは、いつも初々しくあらわれます。 死にたくなけれは、自分の頭で考えることです。考えるに値する頭を自分てつくりあげることです。

現実は厳しいの?

おはようございます。吉野実岐子です。 「現実は厳しい」という常套句は、何を意味しているのでしょうか? 単に、その人が妄想の中にいて、いまだ妄想の中にいることを表しています。 子供はちゃんと現実の中にいるから「昨日と同じ晴れ」と思わずに、目の前にある空や太陽を見て「太陽があんなところにある」と喜んだりしています。 そう「昨日と同じ晴れ」という情報処理が、もうその人を妄想の中に連れて行きます。「昨日と同じ晴れ。またたくさん花粉飛ぶかな?」のようにです。しかし、実際にその人がいる現実では「太陽があんなところにある」が広がっているわけです。 「好きだけど、似合わない」服や靴や髪型やメイクは、あなたが妄想の中にいたことを表してくれて、「好きじゃないけど、似合う服や靴や髪型やメイク」は、あなたを現実に引き戻してくれているのです。「ほら、あなたの良さを今ひきだしたよ。自分の魅力を見て」と、伝えてくれているのです。 でも、妄想の中にいた人は、そんな時こそ「現実は厳しい」と思うわけです。さて、本当に厳しかったのは、妄想の方ではないでしょうか? 明日以降に続きます!

身近すぎる「てんかん」

おはようございます。吉野実岐子です。 今日はこちらでも触れた「てんかん」が、あまりにも身近な病であることをお伝えします。ちょうど『意識と自己』(アントニオ・ダマシオ著、講談社学術文庫、2018年)のはじめの方に、その具体例が載っていたので、引用します。(kindleで読んだので、ページ数がわかりません) 「突然、話の途中で男性が黙りこくった。顔は動きを失い、口は開いたまま固まり、目は私の背後の壁の一点をうつろに見据えていた。数秒間、彼はぴくりともしなかった。彼の名を呼んでみたが、返事はなかった。それから少し動きはじめ、唇を舐め、目はニ人の間にあるテーブルへと移った。男性はコーヒーカップと小さな金属製の花瓶を見ているようだった。いや、カップを手にしてコーヒーを飲んだのだから、見ていたにちがいなかった。私は繰り返し話しかけてみたが、返事はなかった。彼は花瓶に触れた。私は何が起きているか尋ねてみたが返事はなく、顔にも表情はなかった。彼は私を見ていなかった。そうこうするうちに男性は立ち上がった。この先どうなるかわらかず、私は焦った。彼の名を呼んだが返事はなかった。この状態はいつまでつづく?そう思っていると男性はくるりと向きを変え、ドアに向かってゆっくり歩きだした。私は立ち上がり、もう一度名前を呼んだ。男性は立ち止まり、わたしを見た。顔に少し表情が戻っていた。まごついているようだった。もう一度声をかけると、「なんだい?」と言った。 ほんのつかの間、と言っても長く思えたが、男性は意識障害を起こしていた。神経学的に言えば、彼はまず「欠神発作」を起こし、その後「欠神自動症」を起こした。それらは、脳の機能障害によって引き起こされる癲癇の、さまざまな現れ方のうちの二つである。」 一般に、こうした症状には、周りが気づけないことがほとんどです。「抜けている」のようにキャラにされてしまったりしますが、状況により本人が過度にみえる責任を負わなくてはいけなくなったりします。 他にも、スピリチュアルなことや能力のようにも誤認されている、デジャビュ(例: 初めてだけど見たことがあるような感覚)やジャメビュ(例: いつも通ってるけど初めてのような感覚) なども、てんかんを疑う代表的な症状の一つです。 ご自身や大事な人の安全のため、ご理解いただけましたら、幸いです。

おみくじを引くような毎日

おはようございます。吉野実岐子です。 今はまだ、わたしたちは一年の初めにいます。年初にたてた目標は覚えていますか?進み具合や目標達成度はいかがでしょうか? もう、足を掬われたようになっている方もいれば、そもそも目標を立てるところにたどり着かなかった方もいらっしゃるかもしれません。 お天気も毎日が出たとこ勝負になってきて、天気予報自体も2時間ごとにコロコロ変わるから、朝起きて「寝る直前の予報と違い過ぎる!」と驚く方が、当たり前になってきました。強風で夜中に窓を揺さぶられ続け、そのまま朝になる日も、急に増えてきました。 そうした、毎日がおみくじを引くような状態になれば、なおさら「今はまだ一年の初めの時期だ」ということの重要性が増します。みなさんは、今年一番大切なことを、1月にやり終えたでしょうか?何が今年一番大切なことか、優先順位がついているでしょうか? この2月までの間に、一年で一番大切なことを終えたり、それが続く仕組みをつくり終え、さらに着手しはじめると、それがこの一年の自分のアンカーとなってくれます。錨があれば、船は漂流しません。そして、錨があると「思いがけずできたこと」がポロポロ出てくる喜びに恵まれていくんです。

コンプレックスを褒められ、うれしい?

おはようございます、吉野実岐子です。 妄想傾向の強い人は、例えば「わぁ~すてきな暮らし!憧れる」と飛びつきます。そこに「自分の変えられない点を変えるよう迫る要素があるなら、むしろそれは自分にとってストレスになる」という視点はありません。 妄想傾向が強いと、ザクっと物事を捉えて、何かいいことが降ってくるかのように、発想します。即ち、例えば「この靴がなんか嫌」で止まり「足を入れる瞬間がきつい」「甲の部分が若干ゆるい」のように、具体的に嫌なことを発見せずに「みんながいいって言ってる靴を試そう」のようにします。 妄想傾向が強いと、基本的に自分の等身大を捉えません。例えば、自分はコミュニケーションが苦手だと知っていながら、「ちゃんと他の人とコミュニケーションして仕事してきたんですね!」なんて面接でいわれると、苦手だったことが得意なことになったかのように妄想し「評価された!」と思ってしまいます。 とことん主観的ですから、コンプレックスになるほど苦手だったことを褒められる奇妙さという現実には気づけません。そんなふうに誤解されたら、入社してから大変になると言うことに思い至りません。とことん主観的だからこそ、さして努力もしてきていないのに、超苦手が得意にまでなったと思えてしまいます。自分を適切に評価していないのです。 また、妄想傾向が強いと、謙遜するかのようなふりをして、自分のできなさを隠しつつ、自分ができると思い込んでくれた相手と離れないようにするために、お金や時間を使っていきます。自分ができると思い込んでくれた相手が、自分を雇う職場であるなら、残業が増える形で、能力不足が常に露呈するでしょう。だから「お金がない」「時間がない」に悩まされることになります。そして「そんな自分はかわいそう」と穢れては、自分の人間性をどんどん低めていきます。決して、自分の尊厳をまもる態度ではありません。 単に、現実を見れば、解決します。

発煙点

ホーロー製品をリペアに出したんです。それを機に、油の発煙温度を調べてみました。未精製だと、不純物を含むから焦げやすく、炒めものなどには、不向きなんですね。ただ、その不純物の分だけ、風味が良くなる良さがあります。 油は精製するだけで、発煙点が驚くほど上がるようです。例えば、エクストラバージン・オリーブ・オイルは160℃なのに、オリーブ・オイルだと200℃以上になり、バターは175℃なのに、ギーは230℃なんです。たまにパンケーキを焼く際使っていたココナッツ・オイルも「未精製だと175℃が発煙点だから、煙がでたのか!」と、納得しました。 ついでに、鍋類の扱いについて調べたら、何かコーティングしてある場合はすぐ冷水を入れることは避けた方がいいそうです。コーティング等がはがれやすくなるそうです。あの「ジュッ」っていう音が快感で、やってしまっていました…。 そして、ピーナッツオイルは香りが高いだけだけでなく、発煙点が230℃と高いそうなので、今度見つけたら買ってみようと思います。(ごま油や菜種油も、発煙点が高いです) 新年に入り、どんな新しい出会いがあるか、今年も楽しみです!

みなさんにお歳暮を。

先週末から、お休みに入った方が多いでしょうか? ぜひお正月の準備でバタバタする前に、今年を大切に取り扱う時間をとってみましょう。 以下は、その助けになるかと思って、皆さんに贈るお歳暮のようなものです。 今年を振り返って、一番印象に残っている匂いはどんな匂いですか? 今年1番した動作は、どんな動作でしたか? 今年もう一度握り締めたことは、どんなことでしたか? それでは今年のスケジュール帳を、パラパラとめくってみましょう。さて、すっかり忘れていて、驚いたことは何ですか? あの時気づかなかった、喜びや価値があれば、簡単に書き留めてみましょう。 あの時言えなかった自分の頑張りがあるなら、今ここで自分に「よくがんばったね」と言ってあげましょう。 今年を振り返って、実は一番感謝を手向けるべきは誰でしょうか? 大切にしたいはずなのに、今年もやり残してしまいそうな事はどんなことでしょうか? 8の回答に当たることを、今から少しだけ進めるとするなら、何をどんな風にどこまでやりますか? 今年、印象が変わったことを思い返した時に、それは自分のどんな成長を伝えてくれていると思いますか? 1日1日を大切にいきましょう。なぜなら、あなたが大切なかけがえのない存在だからです。

浮気をゆるせる心の広さ?

単発コーチングのお申込みは、今夜21時までです。さて、パートナーに浮気され「それすら許せることが愛だ」と、自分に強いてませんか? パートナーに浮気されている状態、つまり三角関係でなんだかんだやり過ごせるのは、実は単にその人が母親(父親)の影響下にとどまっているが故であると表せます。 その人が男性であれば、母親の影響下にとどまっているからこそ、妻や恋人の浮気をなんだかんだオッケーとしてしまえます。その人が女性であるなら、まだ父親の影響下にあるからこそ、夫や恋人の浮気を結局のところオーケーとしてしまえるのです。 口で「好きだから耐えている」「諦めて受け入れている」「別れると約束してくれたから、信じて待つ」のように言っていようと、何を言ったとしても、です。 なんとなく「許せるって素敵」と酔って、自分が酔えるイメージに自分を当てはめていく限り、ありのままを認めることなどできないから、苦しみは続きます。 そんなあなたが自分に問うべきは「なぜ、自分はそこまでの酔いを必要とするのか?」です。相手に潔白を求めるゲームにいそしむより、自分のありのままを見ていなかった事実を受け入れる方へ進みましょう。

愉快なハイキング

乾燥に悩みはじめたクライアントさんへ、こちらを提案しておきました。 さて、以前から、歳末助け合いとも表されますが、今は苦しみが骨身にこたえる時期であるのかもしれません。そういう時に、それでも生きると決めていただきたいのです。 それは、自分の回復や成長に責任を負うということです。二度と思い出したくないような経験、いわば高いストレス体験後に、それを糧にしていくために一番大切な一歩は、自分の回復や成長に責任を負う態度です。 ここが抜けてしまうと「回復や成長を目指したら、大事な人を遠ざけてしまった」という展開になることがあります。「他者に対し自分をどう表現していくか」を、間違えてしまうからです。 希望をもてることは、決して何かを忘れられることではないのです。何かを忘れられることを的にするのではなく、希望を持てることを的にしていくと、回復や成長の道のりが、愉快なハイキングのようになるでしょう。

一緒に悲しんでくれる?

マスクは密着性を上げる方が、感染症防止効果があることは、みなさんもお判りでしょう。① 耳にかけるゴムをひと捻りしてから耳にかける ②その際、ゴムの出ている両脇のひだを折り込む、とマスクが頬にぴたっと密着するようになり、ウィルス等の濾過率が1.5倍以上になるという医学論文が上がっていました。 今お使いのマスクのまま、すぐにできることです。良かったら、一緒にやってみましょう! さて、被害者と呼べる人がいる状況で、被害者の立場になって一緒に悲しむ姿勢は、一般的にみられる「やさしい人」姿勢でしょう。被害者がその恐怖から抜けられるよう、解決を一緒に探そうとすることは、あるいはその憎しみから自由になれるよう、過去について話すことを促すような態度は、一般的にみられる「いい人」の態度でしょう。 ただし、こういうときに実はその「やさしい人」や「いい人」が、無自覚に心の中で「自分の方が上」と考えていることがあります。こうした優越感は、それを持つ人が「自分は重要だ」という認識から外れたことを、表しています。また「やさしい人」や「いい人」に見えながらも、要求がましさを持っていることがあります。 「いい人」や「やさしい人」としてこれからも人の役に立ちたいなら、要求がましさや優越感が不要になるほどには、人間性を高める必要があります。

対応力

新人さんがバラエティ番組に出ていて、何を振られてもパッと対応していく姿に、その人の強さが見えて気持ちがいいなと思いました。何を振られても対応はしていても、その対応の質が良かったというわけではないんです。でも、そこで何を振られても、その現実と直面していく姿は、その人が信頼を勝ち取っていく姿でもありました。 「できない」とか「むずかしい」というそぶりもなく、本当に振られた内容がわからない(いうならば、ロシア語で話しかけられてきょとんとする感じ)時だけ、きょとんとしていましたが、それは「できない」や「むずかしい」と、全く違っていたんです。 「自分はすぐあきらめてしまうな」と認識できる人は、その対応力の低さは自分が現実に直面しないで生きてきたことと深く関連することに、自分を開いていく必要があるでしょう。そして、すぐ「できない」や「むずかしい」というイメージの世界に逃げずに、対応せざるを得ない現実が目の前に突き付けられたとき、もしかしたらはじめて自分の強さを獲得することになるのかもしれませんね。

状況ではなく結果を見る

イメージを生きて酔っぱらったように浮遊している人は、結果ではなく状況をみています。かつてあった状況を心の中にずっと上映し続けているのです。 例えば、人生も後半になって親を非難したり、あるいは親を庇ったりしている人は、ここに該当します。あるいは「普通に見られたいから」と結婚したがる人も、ここに該当します。「この条件が揃っていれば、居場所が生まれるはず」という上っ面に必死になれているわけですから、酔っぱらったような浮遊者だけが、周りに集まってくるでしょう。過剰適応して自分を壊しそうになったり実際に壊してしまう方も、ここに該当しています。 状況には、往々にして解釈が含まれます。気持ちという客観性を欠いたものも詰め込まれています。そうすると「ますくかいしょく」なんて思いついて、なんと発表できてしまったりするのです、しかもそういう立場にある人がです。一方、結果は事実です。客観的に確認しうるものです。そして、現実はあくまでも事実で構成されています。 これまでの人生で、現実と直面してこなかった人は、現実に根差す強さを持ちません。現実に直面できずに浮遊してきたなら、浮遊するパターンを繰り返すだけですから、より一層の危機を招き入れることになります。それでもまだ「喉元過ぎれば熱さ忘れる」であるなら、危機がつきものの人生になってしまうのは、当然の結果です。

失われた尊厳

ありのままの営みを見ないで、イメージをみていると、みなさんは強さを失っていきます。イメージに留まって、空想する自由を楽しんでいるなら「それが一体、なにを達成してくれるのか」という問いを持ってみましょう。 例えば、空想する自由は、みなさんに尊厳をもたらしたりはしません。一方、ありのままの営みをみる、即ち自分のしたこととそれが運んでくる結末を受け容れられると、それまでは持っていなかった尊厳があなたの中に宿るようになります。 「起きてしまったことを取り消せる」と、どこかうそぶいている内は、あなたから尊厳は失われたままです。特に、中絶や安楽死を含む殺人(当たり前ですが、流産は該当しません)は、取り消すことのできない影響を、既にあなたの人生に与え、またあなたに続く存在に与えています。 それを偽るかのように、名誉を得たり、収入がぐんと上がる頑張りを見せたり、数多くの人から尊敬されているかのようになったとしても、そんな浮遊する人生は、失われた尊厳をあなたに取り戻してはくれません。

魂に響く?

皆さんが自分の問題を語るとき、語られているのは、皆さんの解釈であることが、ほとんどです。それは、実際の解決への道を制限するやり方です。単に既にこうあって欲しいと思う解決を提供する共犯者に、聞き手を仕立て上げる行為です。聞き手が自分の目で見る権利を、奪おうとしているのです。 自分のイメージが崩れたといちいち騒ぐ人たちは、みんなこれをしています。「自分はこんな人じゃなかったはずなのに」「自分の作ってきた家族はこんなではなかったはずなのに」「自分の選んだパートナーはこんな人じゃなかったはずなのに」「自分がこんな目にあったなんて思いたくない」とイメージの世界でとどまることは、個人的な領域に居続けることを意味します。そしてそれこそが、助けが来る道を塞ぎ、すでにある絆をも傷つける行為です。 魂という言葉を使いたがる方に向けて書くなら、これは魂が何かを知る由もない人がすることです。「魂に響く」なんて言葉に酔ってイメージの世界にとどまっている状態にある方は、実際に魂に響いた状態や魂と調和するした経験はありません。

僕たちが若い頃はね…

昨日の続編にあたることを、書いていきます。 企業で働いていると、急に制度改革があって「今年入社した人から待遇が良くなる」といったことがあります。既にそこで働いていた人は、内心むぐぐっとなるわけです。それで新人に「君たちはほんといい時に入ったなぁ~」「君たちはただ入っただけだから、別にあれだけど。やっぱり会社がおかしいんだよな。この制度改革案はずっと前からあって、やっと施行されたんだよ。もっと早く施行されるように、会社をもっと良くしていかないといけないなぁ」なんて、話したりするんです。 これも単純に、新人に対する嫉妬です。口では何を言っていても、「後から来たのに、おいしい思いをしている」が、そこにあるわけです。(兄弟間でもある嫉妬ですね)だから「僕たちが若い頃はね…」と説教めいたことがでてきたりもするわけです。 嫉妬されている新人の方は、なんとなく「この先輩と歩調を合わせておかないと、なんかまずいかも」と、ちょっと悪いことでもした気になったりして、後日「先輩、一緒に会社をよくしていきましょう!」なんて、わざわざ言いにいっちゃったりするわけです。そうして、入りたいプロジェクトに入れるように動くようなことを、せっせとしていくわけです。 こういう先にいた人(先生/先輩/兄や姉/医師)から後に来た人(生徒/後輩や新人/弟や妹/患者)への嫉妬も、非常によくある嫉妬の代表例の一つです。

言葉で圧倒しなくていい自由。

ヴェネチア国際映画祭で銀獅子賞を受賞したニュースをしってからずっと観たかった映画「スパイの妻」を、観ました。 言葉だけを捉えれば、スパイ/狂う/愛する等の意味は、文脈により変わって見えるでしょうが、動きをみればいつもそれは安定しています。動きをみれば、解釈から解放されるのです。 未熟であるほど、言葉で相手を圧倒しながら、自分も自らが発した言葉に酔います。そして、理から離れるから、願いも叶わなくなります。 日本には、自らのあやまちを振り返る作品が少なかったと思います。その点が本当にドイツとは逆です。その一歩として捉えた上で、いい作品だなと思いました。当時の万能感を、よく思い知ることができます。 言葉で圧倒することもされることもなく、言葉に酔うことも酔わせることもない客観の世界は、自由です。

まもられたい、なら。

わたしたちには、遠ざけたいのに近づいてしまうことがあります。亡くなった人を弔うのは遠ざける動きですが、亡くなった人にすがり近づいては、亡くなった人が平安であれないようにしてしまうケースは、代表例でしょうか? 「絶対にああはなりたくない」も同じで、これは遠ざけたいものの実際には近づく動きのため「あんなになりたくないと望んだ姿になる」ことが起こり得ます。親を嫌うほど親のようになったり、あんなに気をつけていた病気になってしまうのも、よくある例の一つでしょう。 加害者と被害者間も同じです。「絶対に許さない」と思うほど近づいてしまい、いつまでも被害者は尊重を得られなくなりますし、嫌な記憶がリフレインします。 和解してはじめて、自分と相手の間に適切な距離が生まれ、互いを尊重できます。尊重はすべての人に必要なことで、あらゆることを解決する鍵です。それはハートを通じて行われていきます。 ゆるしたり、相手を尊重することで、何よりわたしたち自身がまもられていくのです。「まもられたい」なら、すすんで和解し、相手から尊重を得られるようにするのが、最短ルートです。

朝日を浴びるような感覚

日本国内では、特に女性の自殺者数が上がっていると、報道されています。自殺は、本人の自由意志によるもののように考えられていますが、全く違います。 また、一つの要因でそうなることはまずありません。もっとみなさんの後ろから始まっている動きに、将棋の駒か何かのようにわたしたちは動かされている部分もあります。他人からの作用についても、その人にもやはり動かされている部分があるため、実際には複雑にその人の自由意志以外の力が、働いています。離婚や不倫といったことも、そうした側面を持ちます。 当事者はもちろん、それを聞いた人もなぜだか不快になることは、本人の自由意志によって成されていないことがほとんどなのです。しかし、だからといって、そこに法が働くべきではないというわけでもなく、また当人に責任がないわけでもありません。 ただ、このこと全体を真に理解すると、責任がもつ姿に背中を押され、真に前を向いて生きていけるようになります。それは、朝日を浴びるような爽やかさや輝かしさを伴う感覚なんです。

深い愛

深い愛のある人ほど、ご自身を冷たいとご覧になっているケースを、一定の割合で見かけます。ご自身がご家族など所属するところの通奏低音のようになっている場合、それをはっきりとは認識しないことで、まるでご自身を含む全員をまもっているようなんです。 ここでいう深い愛は「誰も排除しないことを徹底できる」と、言い換えられるかもしれません。さらには「自分だけが潔白だ」と主張したがる未熟さと無縁だとも、言い換えられるかもしれません。 「誰からもその居場所を奪おうとしない」それは一般に愛と呼ばれる何かの一部ではないかと、思います。そして、より大きな何かを知覚している中においては「それは愛じゃない」とも表せる何かなのでしょう。 もしかしたら、それは祈りと呼ぶ方がふさわしいのかもしれません。しかし、祈りが残虐さや冷酷さと同じ場所から生まれたりはせず、どちらかと言うと愛と呼ばれるものと同じ場所から立ち上がることを思うと、愛と呼んでも構わない気がします。

死別と力を取り戻すこと。

一般に、わたしたちは死を恐れます。知ることのできないそれは、勝手にそれらしく語られる妄想ボックスともなって、そうある人を支えてくれている側面もわずかにあったりするのかもしれません。 しかし、もっと理性的になってみると、死はすこし違って見えてくると思います。(ここでは身体で感じる話はごそっと抜いて、書いています)。例えば、両親が亡くなる時「やっと解放される」と思う人もいます。愛する人が亡くなって、逆にその人にすっかり囚われたかのようになる人もいます。あるいは、いのちの死でなくとも、何かの連載が終わったりする際、受け入れられずに「永遠に不滅だ」と、また妄想ボックスを膨らませる人もいます。 死を含むあらゆる別れの本質は、関わったその相手や連載といった何かが、その後も望もうとも望まずとも、わたしたちの一部であり続けること(=その流れから自分を排除しないこと)にYESをいうことでしょう。両親の例はわかりやすくて、あなたが失ったと感じる親は、あなたの中に半分ずつちゃんと存在しています。自分の顔の中にお父さんもお母さんも発見することができます。愛する人との間にきちんとコミュニケーションがあったのなら、あなたは相手に何かを与え、そして相手はあなたに何かを与えています。その与えられたものによって、あなたは生かされています。連載も同じです。あなたを支えたり慰めたりしたその動きは、あなたの中で止まらずに存在するのです。その意味で、関わった物や人は、わたしたちの一部であり続けます。 大切な人を亡くした時こそ、どうぞこのことを思い出し、前段落の一行目を声に出して読んでみて下さい。実際に、あなたが別れる相手にYESを言ってみて下さい。死や別れは、何かを排除したり追い払うことではありません。その証拠に、例えばあなたを小さい頃怖がらせた相手は、亡くなった後もあなたにとって脅威でしょう。そして、あなたが関係した相手やものが、あなたの一部であり続けるということは、あなたがその相手やものと同じになるということでは決してないことに、自分を開きましょう。 放火魔の子は、その出自を知らないまま、やはり放火魔になったという実際の話がありますが、それは「放火することが快楽である」という遺伝子が受け継がれただけの話で、ON/OFFはその人にゆだねられています。その人がそれをOFFにする環境を選んでいけば、それはずっとOFFのままです。そして、その人は放火魔の親から、ただ良いものを受け継ぐのです。それをはねのけずに、受け取っていくとき「まだ何か足りない」という感覚ではなく、そして実際に失う体験が増えるのではなく「いっぱいあるなぁ。ありがたいなぁ」という感覚と共に、満ち足りていく体験をしていきます。それは、あなたの力を捨てなくなったから、そうなるのです。

静けさをおそれ、幸せが遠のく。

転売対策しました。 さてさて、幸せが必ず含むのは、リラックスした状態です。心には、光を感じる感覚(例:明るさ)が、宿るでしょう。 そして、自分の中にノイズが多いと、静けさをおそれます。みなさんは、テレビをつけず、SNSやニュースを一度もチェックせず、音楽をきかずに一日を過ごすことができますか?自分の中にノイズが多いから、あちこち動き回るのです。みなさんは、どこにも出かけず、静かに穏やかに三日間を過ごすことはよくありますか? 「気持ちが上がる」洋服や習慣や本を必要とするのは、それだけ普段「気持ちが落ちている(=落ち込んでいる)」からです。それだけ、自分の中にノイズが多いのです。静かであれば、気持ちは上がりも下がりもしません。気持ちを押し込めたり隠したり、落ち着こうとする必要がそもそもありません。 心にノイズが多いままで、リラックスできるでしょうか?ノイズが多いままで、ハートに光を感じる感覚はやってくるでしょうか?ノイズが多いままで、幸せにたどり着けるでしょうか?

自然への畏敬の念

かつて、人は多くの土地で、自然への畏怖の念を持っていました。自然がわたしたちに食べ物をくれることを「当然」と思わず、頭が下がる感覚が自然だったのです。(ここでは、あえて神様に触れないことにしています) だけど、どの国でも人は自然と調和する生活から、離れていきました。そうすると、もともとあった天災による飢饉から来る「食べられなくなる」という恐怖は、実は増していきました。お金の優先順位がみんなの中であがるほど、畏怖していた自然の位置を、お金が奪い取っていったのです。 でも、本能的にどこかで「そうはいってもお金は食べられない」ことを知っています。お金という人が生み出したシステムは、どんなに地球工学や遺伝子工学といった○○工学を使っても、生態系というシステムと、並列には置けないのです。そもそも自然があったのが先で、お金が生まれたのはだいぶ後です。今では多くの人が、自然ではなくお金に畏怖の念を持っていますが、それはその人の意識の話で、理から逸れた自分を止めるためのブレーキとして、そういう人は段々と言い知れぬ恐怖を感じるようになっていきます。 「生きていて何だかこわい」という方は、こうした理から逸れたことをしているから、そういうブレーキが働いている視点に一度立ってみて下さい。特に投資などマネーゲームをする方は、こうした恐怖を強く持つようになります。すべては、あなたを助けるためにやってくるのです。

薄くて小さな枕×たくさん

今までの人生で、様々なところに旅したり、友人の家に泊めてもらったりしましたが、一例を除き、とにかくすべてにおいて、枕が合わなかったのです。いいとされているお高い枕もいくつか試した後、ある時点から、よく推奨されているバスタオルなどを使う方法も試してきました。しかし、その一例にかなうものはありませんでした。 それは、かつてリーダーシッププログラムに参加するため、スペインに通っていた時、定宿にしていたホテルの枕で、とにかく薄くて小さい枕がたっくさん置いてあったのです。それによって、絶妙に寝心地の良い状態を毎回つくることができました。おそらく中身はポリエステルだったと思うし、一つ一つの価格は安かったろうと思います。こじんまりとしていたけれど、内装も木でスペインだけど南仏を思わせるデザインで室内が整えられており、ベランダからは海が見えて、本当に悪くないホテルでした。 それを思い出すにつけ、薄くて小さな枕をたくさんプランで行こうと、色々探すのですが、ベッドで使うのと布団で使うのとでは、使いやすさの条件が少し異なることなどもあって、なかなかいい物に出会えなかったのです。しかし、この春、ぴたっとくる小さい枕を見つけてしまったのです。7cmという高さがわたしには絶妙で、また中でちゃんとそば殻とラベンダーが移動してくれるから、少し高くしたり少し低くしたりできる感じも、わたしには絶妙でした。 ただ、その後「じゃあこれをあと何個か買えば、絶妙に眠りやすい!」と思ってお店をのぞいたら売り切れで、その後半年間入荷がなかったのです。しかし、先日見てみたら、入荷していて、即決で買いました。これでますます、睡眠時間が気持ちのいいものになりそうです。 生活からどんどん不快を減らして、快適度を増していくことは、安心や安定に直につながっていくことです。