物質として清くなる

琵琶湖もラムサール条約に登録されていたんですね。

物質として清くなるということは、人であることの大きな可能性を示してくれています。最終的に何をしても、恩恵にしかならなくなります。

物質として穢れるということは、周りの愛する大事な人達には吐き気や頭痛を与え、ご飯の味はクレヨンか何かのようにしてしまい、つくるものからは、ことごとく品を失われてしまっても、「心を込めたんだから!」と自己主張する状態です。

例えば、空を穢す人がいる一方で、空を清める人もいます。その様は、とれたての魚が腐っていく様を録画し、逆再生したものの「空」版をみるようです。

例えば、桜を穢す人がいます。木に抱きつき、電飾をまきつけ、根元に飲み残しを捨て、夜も明るく照らして桜のリズムを狂わせては、大声で騒ぎたてます。穢した結果、その次の年初めて咲いた花びらは「生まれたての瀕死のおばあちゃん」と呼べそうな状態になります。一方で、桜を清める人もいます。花弁のしわしわ度合いがかわり、時計を逆回しするように花弁が若返るのです。

わたしたちは、「清めて」自然を真っ当な姿に戻していく必要があります。そのためには、わたしたち一人一人が、物質として清くなる他ありません。これが、わたしたちが歩くべき、人の道です。

初出:2016年11月23日