渋さが華やかに映るのは?

生分解性のプランターが、こんなにあるんですね。

こちらに移ってから、混み具合についての感覚が、変わりました。京都在住時、奈良の奥地にある長谷寺へ行くことは、山の中へ入るような感覚でした。(実際、入山料を払います)華やかなところから、渋いところへ行く感覚でした。汚いところから、きれいなところへ行く感覚でした。

京都には、観光のオフシーズンがありません。そんな日常から、長谷寺という観光地に行くと、繁忙期であっても、少しホッとできました。京都市も長谷寺も混んではいても、人数も混み方の質も違ったのです。

今住むところは、観光地ではありません。学校帰りの学生を除き、集団で人がいるところを、まず見かけません。そんな場所から長谷寺にいくと、見られることを前提にしたおしゃれな場所に感じます。かつて「空いてる」と思えた混み具合が「混んでいる」と自分の中で認定されます。渋いと感じた場所が華やかに映り、きれいなところから、少々汚いところにきた感覚になります。

中心に何を置くかで、あらゆる感覚が変化するのは、面白いです。場所だけではなく、人についても言えるでしょう。普段、渋いおばあちゃんと一緒に暮らしている人は、渋さの中の華やかさを見て取れるでしょう。普段、華美な親と暮らしていれば、日本文化のほとんどが渋く見えるかもしれません。今では、わたしは長谷寺へはもっとも空いているだろう時季にだけ行き、以前より短い滞在時間で帰ります。

初出:2017年7月22日