いじめられていると認識できない方もいますが、それでもその方の中ではこんなことが起きています。
イギリス在住経験のあるアメリカ人の知人が「特にロンドンでは、出身階級によって、dinnerがランチを指していたり、breakfastがランチの意味だったり様々で、最後まで判別できなかった」と言っていました。京都も通りによってイントネーションが変わり、生粋の京都の人はそれを聞き分けます。「ロンドンは、京都みたいな一面があるね」と話しました。
京都で、わたしを最初に両手を広げて受け入れてくれたのは、通訳として活躍する、韓国からお嫁に来た方でした。京都のオープンネスは、少し引き戸を開けてこちらを見ているようなものでした。「どうぞ」と招き入れてくれた居間に見える場所が、広い玄関だったりしました。そうした中で、京都に何十年も住んでいる、その韓国の方の大きさと明るさと強さは、いつまでも心に残りました。
そこから「在日」について、よく知らないから向き合ってみようと、思い始めました。先日その時がやってきて、京都の本屋で『在日二世の記憶』という分厚いインタビュー集を買いました。その277ページに、こんな一説がありました。
「わたし自身が本名を呼ばれて、抵抗なく「はい」と答えられるようになったときに、自分自身にある壁ー日本人を嫌いながら、日本人の眼で朝鮮人の自分をも嫌い、朝鮮人を隠そうとしていた自分がいることに気づいたんです。気づいてから周りをみたら、患者さんもスタッフも「やさしく受け入れてくれている」って思いましたね。」
例えば、上の引用を読んだり「在日」という言葉をみて、相手を尊重するつもりで「デリケートなことだ。よく知ってからにしよう」と思ったり、相手を尊重しているつもりで「むずかしいことだから」と言うなど、実は単に相手の思い込みに同調している人を、非常に多く見かけます。
相手の思い込みへの同調は、優しさでしょうか?その思い込みをひょいと超えた態度を、相手も待っているのに、思い込みの方に同調し、あなたも窮屈になるなら、単にあなたが自分自身の尊厳をまもれていないだけです。あなたが自分の尊厳をまもれているなら、相手に共感するから、相手の思い込みには同調しないでしょう。
思い込みは文化を創り、それは魅力にもなります。京都は、それで経済を回している一例です。でも、それは誰かの尊厳をまもる方法ではありません。境界があいまいだからこそ、何となく侵入しあったり、巻き込まれないよう排他性を孕んでいくことは、魅力とはいえ不健全です。
「歴史やテーマがデリケートでむずかしいのだ」と歴史やテーマのせいにして逃げる背中を、あなたのお子さんや地域の子供達は見ていて、真似するでしょう。そうして、地球はさらに荒れるでしょう。
初出:2016年12月14日