外国人の神主さんがいらっしゃる神社があるそうです。その方が「神道は宗教ではない」という至極真っ当な指摘をされていて、胸が打たれました。
本来の神道は、宗教ではないのです。神と銘打ったものを人が利用し、”カミカゼ”が英語になるまでになってしまった現状はあります。仮に利用するにも、必然として限度はでてきます。
神主さんのインタビューでは、このように表されています。
「神道が宗教ではないからだと思います。そもそも、日本に「宗教」という概念はなく、この言葉も明治時代に英語のreligionから作られたものなのです。religionという言葉の定義はメンバーシップのようなものであり、おそらく昔のヨーロッパ社会では何に属しているかで身分や民族を確認したのだと思います。
メンバーになるためには当然資格やルールがありますが、神道にはそういうものが何もない。入り口にある鳥居は、門のように閉めることができませんから、誰であっても、たとえ違う宗教の人でも受け入れるのです。要するにそういった意味では、「宗教」という概念が昔から日本には無かったことになります。その一番代表的な例は、奈良時代に仏教を受け入れたことです。religionという考えからすれば、受け入れて全て仏教にしてしまうか、一切受け入れないかしかないのです。」
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非常にその通りで「属する」ことから生まれる、その団体やコミュニティで共有される「正しさ」(良心とも呼ばれる)が、あらゆるたたかいの発端でしょう。日本では、意識がうんと広く広がり、「属する」ことを超えて、自分さえも感じない状態を、自分を無くすと表現してきました。無我は、自分を押し込め隠し持ち、相手に合わせていく「縮こまる」状態と逆の、ぐんぐん「広がっていく」状態です。
「広がっていく」状態は、たたかいをうんと減らし、うんと遠くの祖先にまで感謝し、自然を愛でる生き方しか、生みません。お参りをするならば、そこに立ち戻るために、神社に立ち寄らせていただくようにしましょう。
初出:2016年11月10日