母親をやめてもいいよ。

こんな耳トレグッズがあったんですね。

傷ついた大人が虐待(abuse)に走るとき、私たちが考え直したいのは、私たち自身がその人たちにとって「傷ついているの。助けて」と言える相手だったかという点です。

その上で、abuseがいかに身近で、みなさんも手を染めているかということを、素直に自覚していただけたら、幸いです。

子供を虐待する親の中にもまた、行き場のない終わらない物語があります。泣き続ける自分自身を抱えながら、実際に子供である我が子を前に「この子がしてもらうように、自分も愛されたい。世話されたい」と願い、それが「この子ばかりずるい。可愛くない」とジェラシーになっていきます。

ジェラシーを感じながらも、親であろうとする葛藤は、子供を盾としたり、代理とする姿勢に転じらていきます。

この段階で「親を続けるのは、無理かもしれない」と育児困難を訴える人には、どうか「そうだね、やめてもいいよ。そういう道もあるよ。これまですごかったね」と伝えてあげてください。

決して安易に里子に出すことを推奨しているわけではありません。ただ、まだ正気を保っている瞬間、親としてできる精一杯のこととして「もう自分には親は無理かもしれない」と吐露するケースがすごく多いからです。本当にベストを提案するために、一見すると弱音に聞こえることを言うことがあるのです。

しかし、本人にはこのままいくと逃れようのない未来がわかっていて、それを避けるために精一杯の努力として、ちょっと下手な表現でそれを表しているのです。どうかそれを水に流さず、手のひらですくってあげてください。

初出:2019年7月22日