Medical Herb Garden 2

初出:2008年9月4日

投げられた自分を、今度は自分で投げる。

以前、ワークショップでお出ししたことがあるお菓子が、成城石井でも売られていました!おはようございます。吉野実岐子です。 今日は、奈良のとある中学のドキュメンタリーから、ボブ・ディラン好きの味のある校長先生の言葉を紹介します。哲学の文脈に生徒を誘って、比喩を用いて、こんな風に話されていました。 「あんたら、人から決められてんねん。もともと、あんたらコップとして生まれてきた。(中略)けど、自分で、これから自分の意味決めていきたい。逆に、自分が投げられた自分を投げんねん、次に。僕は、コップとして投げられてきた。けど、これからは長い人生をかけて、コップではちょっと飽き足らん。だからこれから違う意味として、僕は自分で自分を意味づけていきたい。「私は何々である」。その「何々」にどんな中身を入れるんですか、君らは」 投げられたという表現は「賽は投げられた」という決まり文句を思い出すと、受け取りやすいでしょうか?「人から決められた」の部分は、それまでに人から得た評価や「~だから、選択肢は…の中から」といった提案や症状名などが、入っていくでしょう。 私が「いいな」と思ったのは、投げられた自分(その土地に、その遺伝子情報で、その成育環境で、生まれてきてしまった自分)という表現です。生まれた時、賽は投げられたのです。そして「○さんのところの子供」や「二番目に生まれてきて、5歳い上のお兄ちゃんがいる」といった意味を生む材料が、わさわさ来るのです。 でも、そんなポンと投げられた自分(その土地に、その遺伝子情報で、その成育環境で、生まれてきてしまった自分)を、今度は自分で投げて、自分の運命を自分で決めていくのです。「どうせ…だし」と、コップに甘んじるのではなく、花をいけて自分を花瓶にしていくことが、生きていくということなのです。