深い愛

深い愛のある人ほど、ご自身を冷たいとご覧になっているケースを、一定の割合で見かけます。ご自身がご家族など所属するところの通奏低音のようになっている場合、それをはっきりとは認識しないことで、まるでご自身を含む全員をまもっているようなんです。

ここでいう深い愛は「誰も排除しないことを徹底できる」と、言い換えられるかもしれません。さらには「自分だけが潔白だ」と主張したがる未熟さと無縁だとも、言い換えられるかもしれません。

「誰からもその居場所を奪おうとしない」それは一般に愛と呼ばれる何かの一部ではないかと、思います。そして、より大きな何かを知覚している中においては「それは愛じゃない」とも表せる何かなのでしょう。

もしかしたら、それは祈りと呼ぶ方がふさわしいのかもしれません。しかし、祈りが残虐さや冷酷さと同じ場所から生まれたりはせず、どちらかと言うと愛と呼ばれるものと同じ場所から立ち上がることを思うと、愛と呼んでも構わない気がします。