「自分は潔白だ」という物語

断罪したいという思いを強く持つ方がいらっしゃいます。「誰かを強者にして、誰かを弱者にしなければ、気が済まない」「誰かを加害者にして、誰かを被害者に仕立てあげなければ、気が済まない」という、とても意識的で分断されたイメージを生きる方々です。そうすることで満たされるのは「自分は潔白だ」という物語です。

でもそうやって、表向きの加害者を責めたり、表向きの弱者を憐れんだところで、よりひどい結果が生まれていくことは、明示的です。法の下では、表向きの加害者や表向きの弱者に焦点が当たってしまいます。だからこそ、法的に厳しい判断がなされても、状況は根本から変わらないのです。(法が不要とかそういう話ではありません)

「不倫した人が悪い」「自殺した人が弱い」そんな思いにとらわれてしまう、イメージから抜けられない不自由さがある方に、ぜひ聞いて頂きたい3分間です。

★今日も”thumbs-up”

内省と万能感

親や祖父母の話に「なぜかいつもいじめられる」「いつも嫌われちゃう」話がある場合、親や祖父母が出口のない怒りや不安を抱えていることが、暗示されています。

怒りや不安を健全に表せていない点が、不健全です。この状態が続くと、脳の一部が過活動となり、気が大きくなったりキレたり、自分を破滅させるような動きをとります。そうすると、人は離れていき「関わりたくないから」と必要な情報も最低限しか共有されなくなるから、いじめられてる風や嫌われてる風になっていきます。

そうすると「誰にもわかってもらえない」という万能感(誰にもわかってもらえないくらいすごい)が生まれていきます。その証拠に、その辛さを変えるために自分を変えようとは思いません。つまり、内省ができません。

「自分が何とかしないと」という発想も、既に「できない」とわかった上で思っていたりするのだから、万能感です。そして、だからこそセットで絶望もついてきます。万能感と絶望は、離れ離れになりません。

僕たちが若い頃はね…

昨日の続編にあたることを、書いていきます。

企業で働いていると、急に制度改革があって「今年入社した人から、待遇が良くなる」といったことがあります。既にそこで働いていた人は、内心むぐぐっとなるわけです。

それで新人に「君たちはほんといい時に入ったなぁ~」「君たちはただ入っただけだから、別にあれだけど。やっぱり会社がおかしいんだよな。この制度改革案はずっと前からあって、やっと施行されたんだよ。もっと早く施行されるように、会社をもっと良くしていかないといけないなぁ」なんて、話したりするんです。

これも単純に、新人に対する嫉妬です。口では何を言っていても、「後から来たのに、おいしい思いをしている」が、そこにあるわけです。(兄弟間でもある嫉妬ですね)だから「僕たちが若い頃はね…」と説教めいたことがでてきたりもするわけです。

嫉妬されている新人の方は、なんとなく「この先輩と歩調を合わせておかないと、なんかまずいかも」と、ちょっと悪いことでもした気になったりして、後日「先輩、一緒に会社をよくしていきましょう!」なんて、わざわざ言いにいっちゃったりするわけです。そうして、入りたいプロジェクトに入れるように動くようなことを、せっせとしていくわけです。

こういう先にいた人(先生/先輩/兄や姉/医師)から後に来た人(生徒/後輩や新人/弟や妹/患者)への嫉妬も、非常によくある嫉妬の代表例の一つです。

バグってない?

先週は全国で夏日続出となり、驚きました。数日後にはまた元の気温にもどりましたし、さらに今日から数日後は真冬の気温となる地域が多そうです。そんな乱れの中にあると、自分の選択のバグに気づきづらくなるでしょう。しかし、そんな中でもバグを減らしている人は、数多く拝見しています。

そこで、今回は気温差が激しい時のバグの例をご紹介し、簡単にその対策とそこからの展開についてお話しています。夏のような日の夕方の川面のサウンドスケープも、一緒にお楽しみいただけます。

★今日も”thumbs-up”

電気製品が、立て続けに壊れる?

昨日の続きです。

そうやって学習性無力の状態で「すぐあきらめちゃう」自分でいると、自分の中では「なんでなんだ!」と怒りが増産されます。現実を変えられないことに、不安も募るでしょう。

そうしていくと「混雑しているお店で、自分だけ注文をスルーされた」「一人一人名前が呼ばれる場面で、自分だけ名前を呼ばれなかった」といった不思議を経験するでしょう。まるで自分が幽霊になったかのように、周りが振舞います。(電化製品が立て続けに壊れるとか、変えたばかりの電球が切れるといったことが続くこともあります)

それで、余計に「嫌われないように」と堂々と生きることの真逆をやっていくようになって、すべてにおいて自分を下においていくことが、始まっていくわけです。つまり、嫉妬されまくり、うまくいかないことだらけとなります。「自分なんか嫉妬されるわけない」という発想自体が、自分を下に置いている証です。

もうあきらめるしかないの?

予め「ミーティングに遅れる」とシェアしてあったのに、会議室に入るとみんなの目線が怖くて「えっ!?A社との打ち合わせが緊急で入ったと伝えた上で、会議の参加時刻について合意したよね?」と思ったことは、ありませんか?ルンルンで家に帰ったら、「ただいま~」と玄関を開けた途端、何とも言えない不穏な空気に「あ、今のただいま~は、まずかったかも…」と思った体験はありませんか?

わたしたちはそんな風にして、何も言われなくても、何も見なくても、何かを感じます。そして、これは物理的に同じ空間にいなくても起きます。「空気を読む」といったりしますが、地球上の空気を読んでいる勢いで、言葉という形・視覚・聴覚等で直接確認できないところでも、これが起こりうることが、ちょっと厄介です。

もっというと、人と人の間に空気のない状態、例えば地球にいるAさんと宇宙飛行士で月にいるAさんのパートナーのBさんとの間でも、起こっていきます。その一因は、脳が脳を真似する機能を持つことにあります。

上記の例二つにおいて「えっ!?A社との打ち合わせが緊急で入ったからと伝えた上で、会議の参加時刻について合意したよね?」「あ、今のただいま~は、まずかったかも…」のどちらも、自分を上下関係の下に置いていることを理解できますか?自分を下に位置付けてしまうと、自動的に相手を上に位置付けることになります。そうすると、相手の脳を真似する機能を持つがゆえに、いわば相手のはけ口のない感情などが上から下にと、あなたへ流れるようになるんです。

そうやって、不安や怒りといったものを下になった者が自覚できずに受け取ると、自分の感じた不安や怒りだと、認識します。そして「すぐあきらめちゃう」自分になっていきます。しょっちゅう雷が落ちている環境にいるようなものなので、まるで「また雷が落ちれば、家も焦げちゃうしね。それなら、持ち家なんてもっても、しょうがないよね」と思うかのように、捨て鉢な状態に入っていきます。「今さらやっても…ね」「自分なんか…ね」「にっちもさっちもいかない」と、学習性無力の状態に入っていくのです。

明日に続きます。

手帳を使い続けられない?

皆さんは洋服を選ぶとき「この条件を満たさないものは選ばない」の「この条件」には何が当てはまりますか?

もし「この条件」に触り心地が入るなら、手触りがNGだった洋服は、どんなにデザインが良くても、どんなに自分を美しく見せてくれても、どんなに探していたあの色であっても、絶対に選ばないでしょう。それなら、来年の手帳などもその基準で選べば、1年間快適に使い続けることができるでしょう。

「手帳を使い続けられない」悩みを持つ方を見ていると、自分の快感・不快感に気づいていない状態にあります

自分が何を快適に感じ、何を不快に感じているかを徹底的に洗い出してみましょう。そして、その基準に合ったものだけが自分の環境にあるようにしましょう。

転職に向け、市場が求める人材になる。

今、求められる人材は、外的変化を内的変容に変換できる人材です。過緊張でアドレナリンばりばりだと、それは成立しません。外的変化を待つ自分のない状態でも、それは成立しません。

脳の一部が過活動でも、恨みや憎しみを少しでも抱えた状態でも、やはりそれは叶ぃせん。自分を含むいのちの営みをありのままに認められる状態にあるときだけ、それは可能になります。

困惑する相手を生かす

前回の続きです。

こちらが困惑するようなコミュニケーションを行う人には、ASDの診断名がつく方がいらっしゃいます。脳の特性上、中心が常に自分のままで、中心を動かすことが困難なんです。

ただ、そういう特性を持ちながらも、必死に社会に適応する工夫を重ねていて、その工夫のひとつには「こういう時にこう言うと無難」というテンプレートのストックがあります。このテンプレートがそんなに浮かずに機能した場合、その人がASDの診断名を持つことに、気づきづらくなってしまうかもしれません。

むしろ、テンプレートがその場にそぐわなかった時が、脳の特性に気づけるチャンスです。というのは、、、続きは以下からお楽しみくださいね!

★今日も”thumbs-up”

言葉で圧倒しなくていい自由。

ヴェネチア国際映画祭で銀獅子賞を受賞したニュースをしってからずっと観たかった映画「スパイの妻」を、観ました。

言葉だけを捉えれば、スパイ/狂う/愛する等の意味は、文脈により変わって見えるでしょう。が、動きをみれば、いつもそれは安定しています。動きをみれば、解釈から解放されるのです。

未熟であるほど、言葉で相手を圧倒しながら、自分も自らが発した言葉に酔います。そして、理から離れるから、願いも叶わなくなります。

日本には、自らのあやまちを振り返る作品が少なかったと思います。その点が本当にドイツとは逆です。その一歩として捉えた上で、いい作品だなと思いました。当時の万能感を、よく思い知ることができます。

言葉で圧倒することもされることもなく、言葉に酔うことも酔わせることもない客観の世界は、自由です。

まもられたい、なら。

わたしたちは、遠ざけたいのに近づいてしまうことがあります。亡くなった人を弔うのは遠ざける動きですが、亡くなった人にすがり近づいては、亡くなった人が平安であれないようにしてしまうケースは、代表例でしょうか?

「絶対にああはなりたくない」も同じです。これは、遠ざけたいものに実際には近づく動きのため「あんなになりたくないと望んだ姿になる」ことが起こり得ます。親を嫌うほど親のようになったり、あんなに気をつけていた病気になってしまうのも、よくある例の一つでしょう。

加害者と被害者間も同じです。「絶対に許さない」と思うほど近づいてしまい、いつまでも被害者は尊重を得られなくなりますし、嫌な記憶がリフレインします。

和解してはじめて、自分と相手の間に適切な距離が生まれ、互いを尊重できます。尊重はすべての人に必要なことで、あらゆることを解決する鍵です。それはハートを通じて行われていきます。

ゆるしたり、相手を尊重することで、何よりわたしたち自身がまもられていくのです。「まもられたい」なら、すすんで和解し、相手から尊重を得られるようにするのが、最短ルートです。