よく動くのは元気の証?

「あの人はあの年でもよく動いて、元気ね」「あれだけ動いたのに、また朝早くから出かけたの?体力あるわね!」なんていう会話をしていませんか?頭でっかちで、身体全体の感覚を無視していたり、もはや全身が麻痺していることにも無自覚だと、こんな発想になります。

動き続けるのは、そうしないと体内から出すべきもの・入れるべきでなかったものを出せないからです。食べ過ぎや動きすぎで、無理に汗や便などで出そうとしては、水や空気や食べ物や人の思いなど入るものには無頓着だから、だんだんバランスの取り方自体がかわってきます。その証に、不安がどんどん大きく育ちます。

無理矢理を重ねる中で、身体の重心がずれていくから、何とかそこにいるだけで精一杯になり、繊細に物事を感じとることは不可能になります。いわば3Dカラーから平面白黒になると「色が濃い方がいいんじゃない?見えやすいし」といったざっくりした判断しかできないから「札幌は北だから、とりあえず仙台行きに乗れば近づくじゃん」みたいに、すべてが非効率になっていきますが、行動したことを過大評価し、よしとしてしまいます。

自分の身体の変化も感じとれないから「押されて痛い方が、効いてる感じがする」「飲んでからマッサージに行けばチャラでしょ」といった無茶苦茶な発想で、さらにあやまちを重ねます。しかし、あやまちどころか「いいアイデア思いついた自分は賢い!」くらいに思っています。

どんどん穢れるから、身体も緩まなくなり、眠れなくなりますが「これだけ睡眠不足なら、明日は爆睡で気持ちいいから逆にいい」とポジティブなつもりになり、自己陶酔します。そしてそんなポジティブなつもりを、周りにも強要し、同意を求めます。そうしないと、安定できないのです。きちんと振り返って修正していくことが、もはや不可能になるのです。

塗り重ねてきた、一時的な安心や安堵の塗り重ねは、長期的に見て今の体調の悪さを導くものだったのです。動けるのは元気や体力の証でなく、そうしないと出すべきを出せないところまで、自分を追いつめたからなんです。今、あなたの生き方の方向を転換するときではありませんか?