消化不良だから、強調する。

「あれがあったから、ここにいる」と経由地をわざわざ強調したいなら、あなたはその「あれ」や「あれ」関係者に、今でも復讐しています。

わざわざ「あれ」だけ取り出し、他の経由地と違う重み・違う色合いがつけられた不自然さがそこにあります。植物や動物はらそんなことはしません。だから大きなことが起きても、次の瞬間にはただ太陽を目指すなど、シンプルに生きます。

「あれがあったから、ここにいる」とこれまでを歪めることは、自分を受け入れたり自分を肯定することではありません。

その違和感や消化不良に向き合っていく道の方が、自分を受け入れたり自分を肯定していくプロセスです。

目の充血

昨日お届けしたメールマガジンの補足です。粘膜が乾燥すると、簡単に言うと充血します。鼻をかむとティッシュに少し血がついたり、目が少し赤くなったりします。

だから、穢れたところにいればいるほど、目は充血し、喉が渇き、唇の乾燥が気になり始め、鼻腔内に乾いた感覚が生まれます。

もちろん、パソコンを見過ぎれば実は充血しますし、たくさん話したり喉が渇きますが、こうした使用回数による充血や乾燥だけではないのです。

作り手が清いウェブサイトは、見ていてもそうしたことは起こらず、むしろあなたのいる空間に比べて、そのウェブサイトがうんと清いなら、そのウェブサイトを見ている方が楽に感じるでしょう。また、遠くからパソコンの画面を見たときに、そこだけパソコンが発する光とはまた別の、まばゆい柔らかい光を感じるでしょう。目の奥の筋肉が緩む感覚を得る人もいるでしょう。

逆に、清い空間で作り手が非常に穢れているウェブサイトを見れば、目だけが一気にやられているような感じになるでしょう。短時間しかみていなくても、どよんとしてきて、すごく疲れるのです。後からそのウェブ画面を見ると、そこだけ線が太くて主張が激しくて、やたらと輪郭がくっきりしている印象を覚えるでしょう。改めて遠くから見てみると、パソコンに近寄りたくなくなる人もいるでしょう。

目が少しでも充血したり濁ったように見える場所やウェブサイトに、自らの力よって、自ら長く滞在していないでしょうか?ご自分を振り返ってみてください。

Hybrid Life?

Around 5 years ago, I had a workshop in Tokyo in which I set up many branches, trunks and grasses in that room. I also used bird sounds to make people feel as if they were in nature. Participants liked it and I was satisfied with how I set up my workshop space.

This month, I went into a fruit shop in Nara. It was nicely decorated like a cafe in Tokyo. And bird sounds played in that shop. Many fruit and its products were arranged artfully. It was as if I had set up my workshop space almost 5 years ago. And I felt discomfort.

I have lived in the countryside for 2 and half years. My daily life is always a part of nature. I mean that everything is interconnected into a whole picture. Bird sounds are just a part of the nature like a pixel. Branches or fruitt are also just a part of nature like a pixel. Both are just particles but the whole picture involves space between particles and other particles. So when I entered into that nice shop, I felt the pain of unnatural separation.

When I lived in Tokyo, I rather admired such a pixelated life as a unique one. I did not feel the pain of separation. I thought that a hybrid of urban life and natural things was sophisticated. But now I know how much it is an unbalanced way of life. I experienced the world as a whole compared to how I experienced the world in my past. So now I don’t admire such a hybrid life. Because I jumped into life in the countryside with courage and already knew that it is there.

無事も幸運のひとつ

みなさん、幸運というと棚ぼた的な利益を、連想されていませんか?でも、今無事に生きていることも、幸運のひとつです。

何か「嫌な」ことがあった方も、「嫌」にとらわれず、そこから学んで、未来にたくさんお土産を持ち込みませんか?

「こんな嫌なことがあった!二度といや」と嫌なことを回避する方へエネルギーを注ぐと、あなたは過去の住人のままです。嫌なことを未来へ引き込むことになり、未来が窮屈になります。

「無事で退屈で、何もいいことはない」とふてくされれば、人生の輝きは翳りを見せます。今日も無事であったことに感謝して、自分の人生の輝きを絶やさぬよう、わたしたちはわたしたちの人生を愛していきましょう。

I Should Pursue It

I took part in a casual incense burning class in Nara. I had already taken part in an incence burning class in Tokyo, so I already had some knowledge. But this was the first time to choose ingredients and blend them by myself.

Basically, incense ingredients are divided into kinds of quality ranges, like sharp to sweet and heavy to light. I had a tendency to like sweet and heavy. And almost all of them came from southern coutries like India. And herbs in southern countries improve digestion. So many participants started to feel hungry or have grumbling stomachs while blending their scents. It was very interesting.

Most of the ingredients of incense are used as spices in cooking, but it is the lowest quality. The highest quality is always used for ingredients of incence and the second highest quality is always used for chinese medicine. It came as a surprise to me. In Japan, incense sticks which were made in the Edo Era, are the most popular form of incense. But since the 6th century, incense has been used in Japan. It was fun to learn about the history of incense.

Actually, the week before of this incense class, I took part in an event of Japanese herbs. Some of them were the same. And it was very fun. So I thought that I really loved such kinds of herbs and spices and I should pursue it more! What do you pursue more?

品種改良による、小麦アレルギー

お世話になっているパン屋さんが入れてくださった、古代小麦についてのリーフレットの内容が素晴らしかったので、かいつまんで以下に皆さんとシェアします。

小麦栽培は、1万2千年前から始まっていたようです。チグリス・ユーフラテス川付近では、石器時代の遺跡からアインコーン小麦粒、古代ローマ時代にはスベルト小麦をお粥にして食べたことが、わかっているそうです。

今「古代小麦」と呼ばれる品種は、当時の姿と全く同じではなく、ただ同じ遺伝性特質を保つ品種を、そう呼んでいるそうです。

小麦は、自然交配や人による交配で、1つの穂に1粒の小麦が鳴る一粒小麦から、2粒なる二粒小麦、5〜6粒なる普通小麦へと、DNAを変化させました。

古代小麦として私が食べたことがあるのは、アインコーン(一粒小麦)・カムット(二粒小麦)・スペルト(普通小麦)ですが、最後のスペルト小麦が生まれたのは、約7千年前です。ちなみに、パスタに使うデュラム小麦の親は、カムット小麦だそうです。

スペルト小麦は、アメリカなどではだいぶ前から小麦アレルギーの人が食べていたと聞いています。古代小麦の中では、手に入れやすい小麦粉です。どの古代小麦も生産性が低かったため、20世紀時点では、東欧やアルプスの山岳地など、痩せた土地での家畜の飼料用として、細々と栽培されるのみでした。

私は単に古代小麦のほうがおいしいから、古代小麦のパンをいただいていますが、上に触れたように小麦アレルギーと診断された方でも、古代小麦だと問題なく食べられる方も多々いらっしゃるようです。

小麦アレルギーは、生産性を求めての品種改良を一因とするとされ、アインコーン(一粒小麦)・カムット(二粒小麦)・スペルト(普通小麦)は、そういった品種改良がされていません。ルチンを豊富に含み。抗酸化力が高く、味わい豊かで、少量でも満足感があるため、忙しい朝をゆったりさせてくれます。

わたしの朝はほぼ古代小麦か餅米(おこわやお餅)ではじめて、時間に追われるのでなく、ひとつひとつ時を刻んでいます。まずは、休日の朝からでも、取り入れてみてはいかがでしょうか?朝をダラダラではないゆったりにする仕組みとして、機能します。

中毒とは停滞

何かに「はまる」といい表しますよね?そんな風に、中毒性のあるものを好む方の人生は、本質的に停滞しています。中毒は言いしれぬ恐怖からの回避状態だからです。

ゲームが好きな億万長者の成功者も、アイドルにはまった何かで世界一の記録を出す成功者もいるじゃないかと、不思議に思うでしょうか?

単に、中毒という動きを見てください。ぐるぐる同じところで回るような、前進はしない動きだと思いませんか?

表に出るには、時間がかかることがあります。その人が隠すことにエネルギーを注いでいるなら、なおさらでしょう。

いかなる記録を達成していようと、いかに賞賛を得ていようと、たくさんのお金がその人を通過していようと、この本質がその人を裏切ることはありません。

本質的に停滞した人生は、今、あなたの人生の中で活発に動いてみえるエリアも、壊死させていきます。あなたの人生を停滞させる恐怖は、お酒を抜くように、抜いていくことができます。

横じゃなく縦 

新年、なにか新しいものを始めた方も、いらっしゃるでしょうか? 今から、一つだけ振り返っていただきたいのは、それが自分の中で「縦の動きだったのか、横の動きだったのか」ということです。

「誘われて、何となくやってみた」「新年だから、何か新しいことをと始めてみた」だと、横の動きです。花びらが散るように、横に広がる動きです。苺をのせていたケーキに、マンゴーものせるような足し算の発想です。構造を変えずに付加価値をつけようとするやり方は、思考停止や思考の浅薄さを表します。「人生を変えたい」と言いながら、実際には何の覚悟もしていない人は、この道をなぞるのが好きなようです。

そうではなく、植物がそうするように、縦に動くのです。果てない空へ植物が向かうように、わたしたちは果てない人生の目的へ向かいます。植物が地中深くへ根を下ろすように、わたしたちは自分の中を整理整頓しながら、自分の本音を深く知っていくのです。

「何が不快か」がくっきり認識できていない人は、縦の動きをすると「思い込み」「深く傷ついた記憶」などが、石や隣の植物のような感じで邪魔してくると認識しては、横に広がろうとします。でも、植物と私たちが違うのは、縦に向かう動きを邪魔するものを甘んじて受け入れる必要がなく、そこを変えていける点です。

ちなみに、ずっと「何が不快か」という表し方をしているのは、「何が快か、がわかって、それ以外は不快でしょ」という発想が、みなさんにあてはまらないからです。「何が不快かがわからない」という自覚のない人は、快にも不快にもあてはまらないグレーゾーンを持っていて、快が実は不快だったり、その逆も然りと、ぐちゃぐちゃになっています。

今日を大切にしたい?

夜中や早朝から、お誕生日メッセージ下さったみなさん、ありがとうございます!さて、「今日を大切にしたい」と思って、生きていますか。

例えば、朝起きてベランダに鳩のフンがあって「朝からこうだよ!」と朝7時の嫌な気持ちのまま朝8時に出かけたなら、あなたは「今日を大切にしたい」とは思っていません。

本当に「今日を大切にしたい」と望んでいるなら、1時間前に起きた事は、1時間前に属させます。「今も嫌な気持ちです」ではなく「嫌な気持ちだった」にしていくのです。

「気持ちを切り替えよう」とするのではありません。歩いていて見つけた石を、その場から持ち去らずに、そこに置いたまま去る感覚です。

散々な日になることもあるでしょう。でも「今日は仕事が本当に大変で、散々だった」と思う夜10時、今日はまだあと2時間残っているのです。

だから「今日を大切にしたい」と本当に思っているなら「今日1日良い日で終えるぞ」と決意して、残り2時間をいい時間にするのです。

歩いていて見つけた可愛らしい花みたいなものや、勝手にくっついてきたオナモミみたいなものを、その場所に戻してあげましょう。今日という日があと残り2時間なら、その2時間にかわらしい花やオナモミは持ち込まないで、歩いていると見えてくる新しい景色をみてください。

向こうの空はきっと晴れていたり、面白い雲がいたりして、それは今の場所から歩き出さないと、見えないものです。

どろっ?さらっ?

かつて嗜んだ香道には「香りをきく」という表現がありました。鼻にとどく香りを受け身で感知するというより、積極的に香りの中に入っていく香りへの態度です。

さて、みなさんは他人が言ったことを思い返しては反芻したり解釈するのでしょうが、その前に自分の本音のエネルギーをきいているでしょうか?注意深くきき分けているでしょうか?

自分の本音を、文字に表すような「形」として確認することはしても、その「形」の中身であるエネルギーの質を、きちんとひとつひとつ感じ分けているでしょうか?

例えば、媚びていう「ごめんね」はどろっとしていますし、素直な「ごめんね」はさらっとしています。どろっとしている方は、欲望です。

自分からでた声が、どろっとしているのか/さらっとしているのかをきき分けられるようになると、他人があなたに言うことの区別もつくようになります。

つまり、あなたが無欲なら、他人をいつも見抜けます。さらっとしている方を選び続けることができるようになれば、神経を張り詰める必要もなくなりますね。

感じないから、苦悩する。

身体全体で感じていくと、そこには実にたくさんのこたえがあることがわかります。

身体の一部だけを使って、ひねり出すのではなく、そこに在るのです。感じて出会うのが、答えです。

感じていないと、例えば「パニックがこわい。何としてもこの恐怖を感じないようにしよう」という内側の動きを「褒められたい。こうしたら、褒められるだろう」という別の動きだと、思い込んでしまいます。何が不快かを認識できない人に、典型的なパターンです。

そこから、上の例でいうと「褒められたい」自分なのだと、あやまった自己認識を持ち、さらに自分の内側の動きを誤解したものを上塗りしていくので、自分の実像と自己認識の間に大きなギャップが生まれてしまい、その分「なんでこんなことが」と思うようなトラブルが増えます。

そんなふうにして、身体全体で感じていないと、どんどん苦悩は深くなっていくのです。決して、ハートフルに生きようという話ではありません。苦悩にこたえを出そうと頭だけ使うみなさん、おわかり頂けましたか?

返り血を浴びる

何でも「新しい」と称してお神輿にのせる世になって、何年も経ちますが、昔の人が作ったものの再現すらできない現代が、一体何をどうして進化しているというのでしょう?

悪化や劣化した現実を進化と呼ぶことは、その途中で真剣に試行錯誤したこともあったろう事実すら、捻じ曲げています。

名ばかりのコピーライターのように言葉を使えば、その不適切に「利用された」言葉から、返り血を浴びることになります。安い扱いは、常に高くつくのです。

Tenderness which Looks Austere

I went to the Irie Taikichi Memorial Museum in Nara City. I had never seen his works. But when I ran a keyword search of Nara, his name came up a lot, so I was interested in it.

The first time I tried to go to there, it was at the end of 2018. I got lost and instead of going there, I found a nice cake shop. I had a good time in that cafe and on the way back home I found out that it had already closed for the year. So maybe I was lucky. It is a bit far from Nara station and it takes around two hours from my house. So for the second time, I also failed to reach there before it closed. And instead of going there, I found a nice bakery. Again, I was lucky.

For the third time, I finally got there. It is located in a neat housing estate. Third time is the charm ! It was blended in with the surrounding houses. I was surprised at it. Once inside, I started to appreciate his works. All of his photos were impressive. Immediately, my heart was stunned into silence by their beauty.

Because time was appreciated in all his photos every moment was precious and transitory. He never focused on something dramatic. His photos were filled with sincerity, cleanliness and drama-free sensitivity. He surrendered to viewers how they find some kind of drama. In his photos, dignity of all the subjects were guarded. It made my breath deeper and made me feel spacious. His style was brisk, crisp and invigorating to me.

His subjects were not unique. I thought if I were him, I would never have chosen such ordinary things. But those ordinary things were given a seat by him. So all the subjects were clearly there because he appreciated presence. His photos were austere. At the same time, that austerity drew a clear line to tenderness which he embodied. Ambivalence was intergated into his photos. The time I spent in this museum adjusted my posture and helped to bring tenderness back into my life.

閻魔様や弥勒菩薩からの電話

国会中「○○議員、閻魔様からお電話です」とくるなら、もう少しみんな私利私欲を超えられるでしょうか?

自分の弱さを子供に支えてもらおうとする大人には、ウルトラマンの口元のモデルになったとされる弥勒菩薩から「そんなことをしてはいけませんよ」と優しいお叱りの電話がくるといいでしょうか?

ちょっと責任ある態度を取ると、周りがひどいせいで「神がかっている」と、大仰に形容される時代です。ほんものの神様達は、こんな人間の有り様をどう思っていると思われますか?